| 東京都三多摩のプロフィール |
| 生まれは神奈川県なんです。 |
| ◎多摩の語源は?? |
多摩・多磨は、
○古文書に、多麻河泊(たまがわ)という記述が残ってるそうです。
すると、多麻(たま)とは多くの麻が生えていたのでしょうか。
○宝のタカラが変化してタマといわれるようになったという説もあるようです。
○わたしは、この点、多くの魔物がいたから多魔となって多摩と変化したものと誤解してました。
なぜなら多摩川にも精霊流しが行われてるから、幼心にそう感じたからです。
今冷静に考えてみると、精霊流しの精霊と魔物と同一レベルに感じてたのは
大変失礼なことでありました。
○多摩川は玉川と表記する地域もあるようです、
そして、玉といえば宝の意味があったり、古墳の中の副葬品の宝は玉と呼ばれてるようです。
そうすると、宝が変化したものと想像するのがよいと感じられます。
|
○明治4年
廃藩置県
そうです神奈川県だったんです |
三多摩の大部分が神奈川県に編入されました。
|
○明治11年
郡区町村編制法
|
西多摩郡(青梅に郡役所)
南多摩郡(八王子に郡役所)
北多摩郡(府中に郡役所)
に分けられて三多摩と呼ばれるようになる。
|
○明治24年
三多摩東京移管法案が
国会に提出される |
◎(1).玉川上水を東京のものにすれば、東京の水源確保に役立ち、
そのためには三多摩を当時の東京府に移管することが必要だ。
ということですが、水源確保の必要性だけであれば、
北多摩郡と西多摩郡だけですみ、南多摩郡までも東京に移管する
必要性はすくないはずです。実際、当時の東京府は
北多摩郡と西多摩郡の移管を神奈川県にもとめていたようです。
そこで、以下の理由が言われてます。
◎(2).当時の多摩地域はご存知のように自由民権運動が盛んで、
実際、政府とは反対政党が躍進してました。
そこで当時の神奈川県知事の内海忠勝知事は、自分の首が危なくなり、
多摩地域の移管は、南多摩郡もワンパックで移管に応じる旨を提案し、
以後東京府も三多摩地域ワンパック移管を求めるようになりました。
|
○明治26年(1893年)
東京に引っ越しました |
東京府神奈川県境域変更法により
三多摩地域が東京府に移管される
|
○大正12年
帝都制案が衆議院に提出される
このころから三多摩を
神奈川県に戻すか
三多摩周辺のひとつの県にするか
東京に帰属したままでよいかと
議論がわきあがってきたようです |
帝都制案
都制案
当時の東京市は現在の山手線内くらいの地域で、東京府の中にありました。
人口は急増して、府と市による二重の行政サービス・二重の行政監督によって、
水道や、伝染病対策、社会事業などの都市問題を行うことに、
財政面等の弊害が生じてきました。そこで、東京府とと東京市を一本化する都制が主張されたのです。
都長問題
都の長官(知事)を官選にするか公選にするかという議論です。
当時は都道県知事は官選で、市町村は一応の公選でしたが、都制にした場合はどちらにするかというものです。
地域問題
都制の区域の範囲をどこで線引きするかという問題です。つまり、多摩地域を含めるかどうかということです。
当時の東京市は「都長公選・三多摩除外論」をとり、政府は「都長官選・三多摩編入論」をとりました。
それまで三多摩地域に「多摩県構想」や「武蔵県構想」ももちあがりました。
|
| ○〜昭和18年 |
東京府が東京都になる
|
| ○21世紀 |
地方分権を確立するには国の権限を地方公共団体に委譲(委譲という表現が不適切ですか?)・・、
本来的に地方自治の権限になじむものを国から独立した権限としての権能を増やすだけでは足りず、
そのためにはお金が必要なのです。
しかし、現在の地方公共団体だけで独立採算制の部分を増やすことは、
最小独立行政単位としても少々細かく分かれて小さいらしい。
すると今後統廃合が行われていくでしょうけれども、
さて、三多摩内部ではどのように統廃合なされていくのでしょうか??(武馬)
|
「さんたま(三多摩)」のTOPのページへ |